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  • 更新日 2011年12月 8日
  • 新田集落を行く
    河辺駅若草公園鈴法寺跡旧吉野家住宅新町御嶽神社(吉野織部之助の碑・降雹碑)→ 新町の大井戸東禅寺陣屋屋敷跡小作駅・懐古の井戸
    河辺駅かべえき

    若草公園わかくさこうえん

    河辺町と新町の間には、昭和47(1972)年6月に開園した若草公園があります。 若草公園は付近一帯の区画整理事業が行われたとき、市民の憩いの場として作られました。 面積は約4万9700平方メートルで、公園内には野球場や小さな動物園などがあります。

    鈴法寺跡ずいほうじあと

    新町の西端にある公園は鈴法寺跡で、昭和45(1970)年に戸の旧跡に指定されました。

    鈴法寺は、慶長19(1614)年に月山養風によって川越から移転してきた普化宗120余か寺の触頭(ふれがしら)でした。 徳川幕府が普化宗を保護したため、江戸時代に非常に栄えましたが、明治4(1871)年の太政官布告によって廃寺になってしまいました。

    建物は明治28(1895)年に焼失したため、今は歴代住職の墓を残すのみとなってしまいました。 なお、薬師堂は東の東禅寺に保存されています。

    旧吉野家住宅きゅうよしのけじゅうたく

    昭和51(1976)年に、都の有形文化財に指定された吉野家は、新町を開拓した吉野織部之助の子孫の住居で、現在残っている建物は、江戸時代末期の名主階級の民化の代表例です。

    前庭には開村時の慶長18(1613)年11月に掘られた井戸があり、「慶長の井戸」と呼ばれています。

    新町は武蔵野台地で最も古い新田集落で、慶長16(1611)年から開拓が始まりました。 初めは協力者も少なかったのですが、その後次第に増え、元和2(1616)年には立派な「新町村」が完成しました。

    新町の開村を記録した「仁君開村記」をはじめとする古文書は、東京都の有形文化財に指定されています。

    新町御嶽神社しんまちみたけじんじゃ

    青梅街道に沿って並ぶ家々の北側には、 元和2(1616)年に吉野織部之助(?~1639)が大和国吉野金峯山権現を勧請した新町御嶽神社があります。 祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)・押武金日尊(おしたけかなひのみこと)で、例祭は9月29日です。

    神社の前は「宮ノ前」という地名です。

    また、 この神社周辺の新田開拓は、 武蔵野では最古の例です。

    織部之助の碑おりべのすけのひ

    境内には、 吉野織部之助の碑が建てられており、 碑には織部之助の胸像や新町開村の記録などが刻まれています。

    降雹碑こうひょうひ

    昭和2(1927)年5月15日に、新町一帯は降雹の害に見舞われました。 その折の惨状の記録をいつまでも残すために、新町地区住民が昭和3(1928)年3月に建てたものです。 なお、碑は以前は別のところに有りましたが、平成元(1989)年に新町御嶽神社境内に移されました。

    新町の大井戸しんまちのおおいど
    (都史跡)

    大井戸は新町御嶽神社の南東の、林の中にあります。 深さ約5メートルの大きな凹地(くぼち)で、凹地の周辺には高さ50~100センチの土手があります。 土手も含めた井戸の大きさは、最長で南北約55メートル、東西約35メートルです。

    掘られた時代は不明ですが、江戸時代以前と推定されています。

    東禅寺とうぜんじ

    金錫山と号し、 臨済宗建長寺の末寺で、 本尊は観音菩薩です。 元和2(1616)年の新町村開拓の際に、 吉野織部之助が建長寺覚海を勧請して開山しました。

    本堂は近年建築され、 山門だけが当寺の建物です。 銅鐘は戦時中供出されたため現在はなく、 境内には廃寺となった鈴法寺の薬師堂が移されています。

    また本堂にかかげてある「武叢禅林」の木額も鈴法寺の遺品で、 市の有形文化財に指定されています。 裏には文化12(1815)年の年号と、 製作の由来が刻まれています。

    陣屋屋敷跡じんややしきあと

    吉野家住宅から南へ約200メートル進んだ青梅学園付記一帯は、「陣屋跡」あるいは「蔵屋敷」という地名です。 吉野織部之助は新町を開いた時、新町が発展した際にはここに陣屋をも誘致する計画を立てていました。

    間口30間、奥行き40間の予定地に陣屋が建つことはありませんでしたが、その後、凶作に備えて、稗や粟などを貯蔵した郷倉が建てられたようです。

    小作駅・懐古の井戸かいこのいど

    懐古の井戸は小作駅構内にあります。 小作駅は地下水位が低い乏水台地の上にあり、水には恵まれませんでしたので、小作停車場が開かれた時、この井戸が掘られました。 井戸の深さは地表面から25.3メートルもあり、工事は大変でした。 しかしながら、この井戸のおかげで近所の人たちはもちろんのこと、鉄道客はとても助かりました。

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