二俣尾駅 → 長泉院 → 辛垣山 → 名郷峠 → 桝形山 → 三方山 → 鷹ノ巣山 → 矢倉台 → 日向和田石炭採石場跡 → 楯ノ館跡 → 首洗いの井戸 → 明白院 → 宮の平駅 ●「三田氏と三田谷」 ●「青梅線の敷説と石灰石の採石」 | ||
二俣尾はかつて「二又尾」と書かれたこともありました。 武蔵野各地からの旅人たちは、ここから多摩川をさかのぼって奥多摩や甲州方面に向かい、また、平溝川沿いから成木や名栗を通って秩父方面に向かいました。 二俣尾はこの分岐点でした。 中世の頃は、辛垣城があり、駅付近は根小屋集落として栄えていました。 現在でも上宿、中宿、下宿といった地名が残っています。 駅ができたのは大正9(1920)年で、北側にそびえる雷電山から掘り出された石灰石を運び出すのが主な目的でしたが、同時に一般旅客、貨物の営業も開始されています。 | ||
長泉院は永正年間(1504~1521)に開かれた古い寺で、二俣尾の上宿に位置しています。 北東の山地は山城である辛垣城の一部でした。 寺の東側の沢を流れている小川は唐(辛)沢と呼ばれ、城を守る水堀の役目もはたしていました。 | ||
辛垣山は二俣尾駅の北にそびえる標高高450メートルの山です。 山の大部分は、今から2億年以上も前に海底に堆積した砂が固まってできた砂岩からできていますが、山頂など所どころには石灰岩がみられます。 大正時代後半から昭和初期までは石灰岩が掘り出されたため、山頂をはじめとして数か所に採掘跡が残っています。 | ||
中世の頃、辛垣山には多摩川上流域を支配していた三田氏の山城がありました。 三田氏の本拠地勝沼城に対し、この山城は西城と呼ばれていました。 八王子(滝山)の北条氏の攻撃に備えて作られたと考えられています。 永禄年間(1560年代)の北条氏の攻撃で落城。 同時に三田氏も滅びました。 | ||
辛垣山の東側にある名郷峠は、北小曽木の正沢と二俣尾を結ぶ標高387メートルの小さな峠です。 かつては北小曽木と二俣尾を結ぶ重要な峠でしたが、今では利用する人もほとんどなく、知る人も少なくなってきました。 | ||
枡形山は二俣尾駅の北東にあり、名郷峠の南側にそびえる山です。 この山の山頂を中心とした一帯にも山城がありました。 現在でも山頂を中心とした2重の空掘と土塁が残っており、敵の攻撃に備えていたことがわかります。 | ||
三方山は名郷峠の東にある、標高454.4メートルの山で、周囲は急斜面の山腹に囲まれています。 現在は植林によっておおわれているため展望があまり良くありません。 | ||
鷹ノ巣山は三方山の南東にそびえる、標高405メートルの山です。 鎌倉時代から江戸時代にかけて、武将や将軍家のあいだでは、鷹狩りがしばしば行われていました。 狩用の鷹は鷹匠が雛の頃から飼育し訓練していましたが、その場所が「鷹ノ巣山」です。 鷹ノ巣山は、場所によっては「御巣鷹山」「御鷹山」あるいは「巣鷹山」とも呼ばれており、奥多摩には各所に、この地名の山があります。 | ||
矢倉台は「櫓台」とも書きます。 ここは戦国の頃、青梅を支配していた三田弾正少弼綱秀が、敵の北条氏の動きをつかむために見張り台を置いたところといわれています。 ここからは、足下の青梅はもちろんのこと、立川や新宿などもよく見えます。 | ||
日向和田石灰採石場跡は、宮ノ平駅と日向和田駅の間にある、巨大な石灰採石場の跡です。 矢倉台の直下に当たるここには、明治時代後半まで要害山と呼ばれる、全山石灰岩で標高230メートル前後の山がありました。 明治28(1895)年から昭和40(1965)年頃まで石灰岩の採掘が行われ山は消えてしまいました。 採石場跡の北側には、かつて石灰石を焼いて消石灰を作った窯跡が残っています。 | ||
青梅(裏宿)と日向和田1丁目(宮ノ平)の間を、北から南へ流れる沢は楯ノ沢で、この楯ノ沢に架かる橋は館ノ橋である。 楯ノ沢から西側一帯は楯ノ館跡で、ここにも三田氏の支城がありました。 城の両側には深い沢、南側には多摩川に面する急崖があり、北側は空掘と土塁で囲まれています。 ここは二俣尾の西木戸と共に辛垣城を守る要害の地でした。 三田氏滅亡後は、北条氏の家臣の田辺清右衛門が居城としましたが、天正18(1590)年に北条氏が敗れると、田辺氏は江戸へ移り住み、村民が住むようになりました。 現在は、一部宅地化されましが、土塁や空掘を見ることができます。 | ||
首洗いの井戸は、楯ノ館跡の東端付近、楯ノ橋から西へ約30メートル、青梅街道の北側にあります。 井戸はケヤキの根本にあり、大きさ85×125センチ深さは85センチの横井戸です。 楯ノ館跡の井戸であることから、いつとはなしに、戦いの際に討ち取った敵の首を洗う井戸ではないかといわれるようになりました。 | ||
明白院は日当山と号し、本尊は勝軍地蔵です。 天正年間(1573~1592)に天江東岳を開山とし、三田氏の家臣野口秀房を開基として創立されました。 その後、延享元(1744)年に堂宇が再建され、大正年間(1912~1926)に増改築、および内外の整備が行われました。 山門は、木造茅葺の四脚門で、田辺清右衛門の楯ノ館にあったのを、明白院設立の際に移築したものと伝えられています。 桃山時代の作風を残しているといわれ、市の有形文化財に指定されています。 | ||
山門の左側には、市内でも数少ない見事なシダレウメがあり、樹齢は若いのですが毎年早春(2月末頃)には、たいへん美しい多くの花を付けます。 | ||
宮の平駅は、明治28(1895)年に開設された古い駅で、当初は日向和田駅と呼ばれていました。 JR青梅線の前々身である青梅鉄道株式会社によって、駅の北西にあった山から掘り出される石灰石を、京浜工業地帯へ運びだすために設けられた駅です。 鉄道工事は明治28(1895)年4月に着工し、同年12月に開通の運びとなりました。 当時の駅は現在の日向和田保育園のところにありましたが、大正3(1914)年に現在の日向和田駅まで鉄道が延長された際、石灰石運搬専用停車場として現在地に移され、駅名も宮の平駅と改められました。 | ||
三田氏は、鎌倉時代から室町時代にかけて、青梅を中心とした多摩川地域を支配していた地方豪族です。 三田氏の名前が最初に出てくるのは、『東鑑』という書物で、建長2(1250)年の頃です。 また、『太平記』(正平7・1352年)には、足利側の武将として登場しているところから、鎌倉幕府の御家人として、または、北朝方の武士として勢力を持っていたと考えられます。 三田氏は永正年間から天文年間(1504~1555)にかけての約50年間が全盛期でした。 氏宗と政定の時代です。 三田氏は平将門の後胤と名のり、大永元(1521)年には天寧寺に銅鐘を寄進しました。 塩船観音寺や、報恩寺へもたびたび寄進したり、あるいは仏像や建物を修理したりもしました。大永4(1524)年には北関東を支配していた上杉氏と南関東を支配していた北条氏の和睦の仲介もしています。 相当な実力がないと仲介はできませんので、かなりの力を持っていたことを示しています。 さらに氏宗と政定は連歌や和歌もたしなんでおり、永正6(1509)年には当時、連歌師として有名な柴の屋宗長を招き、また天文2(1533)年には京都の三条西実隆を訪れたりもしています。 このような事ができたのは、それなりの財力もあったからでしょう。 三田氏が支配していた多摩川の中・上流域は三田谷と呼ばれました。 三田谷は木材や漆などの森林資源に恵まれ、また水田や畑といった耕地にも恵まれていたようです。 三田氏は永禄年間(1560年代)に八王子の北条氏に滅ぼされました。 | ||
わが国で最初に鉄道が敷説されたのは、明治5(1872)年のことです。 そして明治22(1889)年には、新宿から八王子まで甲武鉄道が開通しました。 直後の明治24(1891)年、平沼専蔵は他の15名と共に、860株を持つ青梅鉄道会社の設立を内務大臣・品川弥二郎に申請し、同年9月に許可されました。 設立理由は、日向和田で産出される石灰石を搬出し、あわせて青梅をはじめとした西多摩の交通の便を良くして、物資の輸送を盛んにすることでした。 そのため860株のうち100株は、浅野セメントの浅野総一郎が持ちました。 線路の敷説工事は明治27(1894)年1月から始まりました。 そして、同年11月には立川―青梅間が完成し、続いて明治28(1895)年4月には日向和田まで延長されました。 大正9(1920)年には、二俣尾の雷電山周辺に埋蔵している石灰岩を採掘するため、線路はさらに延長され、また、昭和4(1929)年には武蔵御嶽神社や高水山への参詣者の便を考えて、御岳駅まで延長されました。 御岳駅から奥へは、地形が険しく、また、線路を設置しても採算が取れる見込みが立たなかったため、鉄道の敷設は考えられていませんでした。 しかし、昭和16(1941)年からの第二次世界大戦中に、白丸や氷川で掘り出されていたマンガンや、日原地区での石灰石を軍需物資として有効に使うため、鉄道敷説工事が始まり、昭和19(1944)年7月には、氷川駅まで開通しました。 | ||