青梅駅 → 青梅市立中央図書館 と 七兵衛地蔵尊 → 梅岩寺(しだれ桜・建部涼岱の碑・普門品十五萬巻供養塔)→ 旧稲葉家住宅 → 森下陣屋跡(カシ)→ 七兵衛公園 → 裏宿遺跡 → 金剛寺(山門・誓いの梅・しだれ桜・指定文化財 など)→ 男井戸女井戸 → 釜の淵公園(若鮎の碑)→ 常保寺(中原章の墓・正岡玄道の墓)→ 青梅市立美術館 → 延命寺 → 宗建寺(根岸凉宇の墓・根岸典則の墓)→ 住吉神社(雲竜図・筆塚・根岸典則の碑)→ 青梅駅 | ||
青梅駅は青梅市の正面玄関として親しまれていますが、その開業は青梅鉄道が立川駅―青梅駅間に開通した明治27(1894)年11月でした。 青梅鉄道は西部山地の石灰岩や木材の輸送と、さらに西多摩の経済が発展するようにと設けられた鉄道です。 明治24(1891)年に内務大臣に提出された鉄道趣意書は次ぎのような書き出しで始まっています。 「明治22(1889)年甲武鉄道(現在の中央線)即ち新宿―立川間の鉄道開通するや沿線の繁栄は驚くべき速度を以って進み平原に等しかりし国分寺、立川の両駅の如きは忽にして小都会を為し旧部落の商権を奮ふに至れり。 茲に於て西多摩郡の有志等相謀り軽便鉄道の敷設を企て其筋に出願したり。」 設立当初は蒸気機関車が貨車客車を引く軽便鉄道でしたが、大正12(1923)年4月に全線電化されました。 開設当初駅舎は木造平家建てでしたが、大正13(1924)年に、当時としてはこの地方としては珍しい、現在の鉄筋コンクリート造りの建物になりました。 昭和44(1969)年5月から駅前の改造事業が始まり、昭和51(1976)3月に3300平方メートルの駅前広場、幅員25メートルの街路、そして沿道建物の防火近代化が完成し、「青梅の玄関」として面目を一新しました。 | ||
市内には10ヶ所の図書館があり、中央図書館はその中心的役割を担っています。 昭和62(1987)年までは都立図書館でした。 都立青梅図書館は西多摩の産業と文化の中心であった青梅に、終戦直後の昭和22(1947)年3月に開設されました。 「むらさき号」などの移動図書館による活動も盛んで多くの市民に親しまれていました。 | ||
図書館の東隣りには七兵衛地蔵尊が祭られています。 この地蔵尊と図書館の敷地は共に裏宿七兵衛の畑地でした。 彼の死後、たびたび事故があったので、地蔵尊が祭られました。 今でも参拝者が絶えません。 | ||
中央図書館の西にある真言宗豊山派梅岩寺は、 竜光山能満院と号し、 本尊は虚空蔵菩薩です。 長徳年間(995~999)に寛朝が開山したといわれ、永禄年間(1558~1570)に金剛寺8世の良深が中興したとされています。 慶安2(1649)年には、寺領5石の朱印状を寄せられています。 | ||
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しだれ桜は幹回り2.65メートルと大きく、 昭和32(1957)年に市の天然記念物に指定されています。 4月の中旬頃には見事な花を咲かせ、 山裾をひときわ鮮やかに飾ります。 | |
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六地蔵尊は昭和4(1929)年5月の建立とされ、 その横にはまだ新しい風貌の6対(左から伏息・伏勝・諸竜・護譛・無二・禅林)が並んでいます。 | |
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涼岱は宝暦・明和年間(1751~1772)頃の江戸の有名な俳人です。 彼はたびたび青梅を訪れ、地元の文人たちに大きな影響を与えました。 碑は、涼岱の7回忌に当たる安永9(1780)年に、 根岸涼宇などの門弟が供養として建てたものです。 風化が激しく、 碑文は消えかけています。 | |
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碑の文字「普門品十五萬巻」は円覚寺の誠拙の書で、 文化14(1818)年に建てられました。 背面には、 根岸典則が仮名書きで、 法華経をたたえる文を記しています。 高さ2.8メートルの角柱の上部には、 たいへん複雑に彫られた七観音があり、 大きさといい、その造りといい見事です。 | |
森下陣屋跡から約100メートル東にある旧稲葉家住宅は、かつて青梅が市場集落であったことを示す代表的家屋です。稲葉家は屋号を「稲葉店」といいました。 木材問屋として活躍した青梅有数の豪商でした。 土蔵作りの店蔵は、間口いっぱいに土間がある前土間形式です。 梁や柱には奥多摩の日原から伐り出されたシオジ材が用いられており、規模も青梅宿では最大級で、18世紀後半の建築と推定されています。 昭和56(1981)年に東京都の有形民俗文化財に指定されました。 | ||
東西にまっすぐ伸びる青梅街道の西端には森下陣屋跡があります。 現在、ここには小さな公園と熊野神社、谷(やづの)稲荷大明神の祠があります。 陣屋とは、代官所の出張所です。 天正18(1590)年8月以降、関東は徳川氏によって支配されましたが、徳川氏は多摩地方を管理するために八王子に代官所を設け、大久保石見守長安を任命しました。 西多摩は、木材をはじめとする物資の大供給地であり、青梅は交通の要所でもありましたので、長安はここに陣屋を設置しました。 陣屋は延享年間(1744~1748)頃に廃止されましたが、それまでは役所のほか関所の役割も担っていました。 当寺の人びとは、八王子の代官を「大代官」、青梅の代官を「小代官」と呼んでいたようです。 | ||
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森下陣屋跡の敷地内には、カシの木1本、イチョウの木2本が目立っています。 カシの木は、地元では ”おくまんさまのカシの木” として親しまれており、目通りは約3.5メートルで、大きさ樹形ともに市内では最大です。 | |
裏宿の七兵衛公園は、元文4(1739)年に刑死した七兵衛の屋敷跡だといわれています。 七兵衛は義賊とも、単なる盗賊団の親分であったとも言われていますが、とても足が速く、夜中に遠方で盗みを働いていても翌朝には裏宿へ帰り、昼間は百姓仕事に精を出したので、彼が盗賊だと知る人はなかったと伝えられています。 青梅街道に沿っては、道路改修にともなって裏宿坂上から移された、宝永元(1704)年の庚申塔をはじめ、5体の石仏が並んでいます。 | ||
都立多摩高校を中心とした付近一帯は裏宿遺跡と呼ばれ、旧石器時代の打製石器、縄文時代中期の集落跡、平安時代の集落などが発見されています。 昭和58(1983)年度の調査によると、縄文時代中期の敷石住居跡は全長約7メートルで、床には多摩川から運んできた扁平な河原の石が敷きつめられており、柄鏡型住居と呼ばれています。 また、平安時代の住居跡群からは土師器(はじき)や須恵器(すえき)などの土器のほか、方頭斧箭(ほうとうふせん)と呼ばれる鉄鏃が出土しています。 | ||
天ヶ瀬にある真言宗豊山派金剛寺は、青梅山無量寿院と号し、本尊は白不動画像です。 承平年間(931~938)の創建と伝えられ、 開山は寛空上人とされています。 16世紀中頃に、 三田氏を滅ぼした後北条氏により、塩船寺と同様、 ただちに領地を保証され、 大きな勢力を持ちました。 金沢(横浜市)の弥名寺(金沢文庫のあった寺)から伝えられた鎌倉時代の仏画の名作「如意輪観世音」(乾元元」・1302年作、大正15・1926年に国の重要文化財に指定)をはじめとした、多くの文化財を所有しています。 | ||
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表門(山門)は寛文年間(1661~1673)以前に建てられたと推定されています。 構造は四脚門・切妻造り・銅板葺・唐様です。 昭和36(1961)年に東京都の有形文化財に指定されています。 | |
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中庭に19本の石柱で囲われた梅の老木があり、[将門誓いの梅」と呼ばれています。 秋になっても青々とした実が落ちないという事で、 青梅と言う名の由来になったといわれています。 大正11(1922)年6月に「金剛寺の青梅」として、東京都の天然記念物に指定されています。 | |
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しだれ桜は、 梅岩寺のしだれ桜と兄弟に当たるものです。根元の石碑は松尾芭蕉の句「梅の香(むめがか)にのっと日の出る山路かな」を彫ったものです。 | |
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国重要文化財 絹本着色如意輪観世音像 参考資料 『特別展・青梅の名宝』より |
鐘楼には、 寛文6(1666)年の銘がある、 高さ105センチ、 直径69.2センチの銅鐘があります。 墓地入口には、 奥多摩新四国88か所霊場・第54番の石仏があり、その先には田辺清右衛門惟良(明暦4・1658年没)の墓があります。 国重要文化財 絹本着色如意輪観世音像(大正15年指定) 都有形文化財 絹本着色田辺清右衛門惟良画像(昭和40年指定) 青磁鉢(昭和40年指定) 絹本着色高野四所明神図(昭和40年指定) 金剛寺聖教(昭和43年指定) 灌頂文要集(昭和40年指定) 三宝院伝法灌頂聞書(昭和40年指定) Siddham反音私抄(昭和40年指定) 市有形文化財 寺領安堵状(昭和39年指定) 三田氏位牌・裏書(昭和39年指定) 十六羅漢紙本淡彩画像(昭和43年指定) |
大柳公園のすぐそばにある男井戸女井戸は、段丘崖を奥へ約5メートル掘り込んで作った平坦な地にあります。 仲よく並んだ井戸は、かつては近隣の人々の大切な水源でした。 今は水を汲む人もなく、古くから地元の人に親しまれ、また、秘話を持つこの井戸も、近年は子供達の恰好の遊び場となっています。 | ||
釜の淵公園は、人びとに多摩川に親しんでもらうために、そして市民の憩いの場として利用してもらうために、昭和42(1967)年に開園しました。 多摩川両岸の公園内には、市民館・プール・郷土博物館・旧宮崎家住宅・保養センターなどがあります。 また散策コースの林の中には四阿(あづまや)も設けられています。年間を通して訪れる人も多く、憩いの場として親しまれています。 | ||
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多摩川の放流鮎の歴史は、大正2(1913)年に東京帝国大学教授・石川千代松博士が、琵琶湖産の鮎100尾を大柳河原にはなしたことに始まります。 日本最古の放流養殖実験に成功したことから、放流地であるこの地を記念した、昭和48(1973)年に像が建てられました。 | |
滝ノ上にある常保寺は、 瀑布山と号し、 本尊は釈迦です。 初めは真言宗で金剛寺の末寺でしたが、 山梨県から吹峯宗蔭和尚(嘉吉元・1441年没)が来住した祭に改宗し、臨済宗玉泉寺の末寺となりました。 明治3(1870)年の火災によって建物を焼失。 翌年に御岳山で廃寺となっていた正覚寺・世尊寺の材木で再建したといわれています。 門の左側の鐘楼には、 文政9(1826)年鋳造の鐘がありましたが、 太平洋戦争中に供出され、 現在は戦後鋳造されたものがあります。 | ||
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墓地入口にある六地蔵の建物の裏には、中原章の墓(市史跡)があります。 墓碑に書かれた「中原章之墓」は門弟の小峰峯真が記し、常保寺11世の住職・支兀和尚が撰んだ文面が碑の三面にあります。 墓は寛政2(1790)年に建てられました。 | |
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中原章の墓の左側には正岡玄道の墓があります。 墓の正面には「文化三丙寅十二月二十四日俗名正岡玄道」とあり、「如是印大果全報居士」と刻まれています。 便々庵八重垣と称して狂歌を好んだ人で、文化3(1806)年に没しました。 | |
市立美術館は、多摩地区における最初の市立美術館として、昭和59(1984)年秋に開館しました。 日本画・洋画・彫刻・工芸・書など各部門の郷土作家を中心に、日本近代美術の優れた作品が展示され、また、企画展も行われています。 館内には、日本の近代洋画史上大きな足跡を残した、小島善太郎美術館が併設されています。 会館は9時から17時までで、月曜日が休館日です。 | ||
延命寺は住吉山の号し、 本尊は釈迦如来です。 創立は応安2(1369)年で、 委竜筍西の開山と伝えられています。 境内の呑竜堂(どんりゅうどう)に祀られる呑竜上人ゆかりの祭礼は、 [お呑竜さま」と呼ばれ市民に親しまれています。 また、 この寺の応安2(1369)年創建当寺の鉄製棟札は、 [青梅」という地名が記されている最も古い資料として、 市有形文化財に指定されています。 また、 入口の右手には、 市内では珍しい木造の小さい五重塔が、 墓地への入口付近には、 六地蔵(文政3・1820年)や文字馬頭(天保10・1839年)などがあります。 | ||
仙桃山と号し、 本尊は毘沙門天です。 開山は浄土宗の一翁祖蓮和尚(宝徳2・1450年没)と伝えられていますが、 その後、臨済宗に改宗して、 玉泉寺の末寺になりました。 | ||
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根岸涼宇は寛政(1794)年に63歳で他界した文人です。墓碑には と、辞世の句が刻まれています。 | |
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根岸典則は、 天保2(1831)年に74歳で他界した文人です。涼宇の没後、 青梅の文芸の中心的・指導的な人物となりました。 | |
住吉神社の祭神は底筒男命(そこつつのおのみこと)・中筒男命(なかつつのおのみこと)・上筒男命(うえつつのおのみこと)の3柱と神功皇后(じんぐうこうごう)で、例祭は4月28日、山車巡行は5月2日・3日の両日に行われます。 住吉神社は、社伝によると応安2(1369)年に延命寺の委竜和尚が同寺を建てるにあたって、出身地の住吉明神を寺門の守護神として勧請したのが始まりといわれます。 それ以前には、地主稲荷と呼ばれる小さな稲荷神社があったといわれ、本殿の西側の小高いところに位置している社がそれだといわれています。 永正10(1513)年には、三田弾正忠氏宗・政定父子および氏の寄進によって改修を行っています。 また、慶長18(1613)年の雷火により拝殿・へ幣殿を焼失し、併せて社記・社宝を失ったとされていますが、本殿だけは千木、梁等をわずかに損傷しただけにとどまり、桃山(慶長)時代のものであると推定されています。 本殿は、正徳6(1716)年に大阪生れの、江戸の棟梁・貝塚作右衛門泰久によって作られた建物で、宝暦3(1753)年に修理されています。 本殿様式は、妻入系である春日造りの珍しい作りです。 現在の拝殿・幣殿は、文政7(1824)年に青梅縞の取引先である江戸商人などの協力により新築されています。 社域は昭和28(1953)年に市の史跡に指定されています。 | ||
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拝殿の天井にはりっぱな雲竜図があります。 この絵は文政7(1824)年の新築に際し、青梅が生んだ画家・小林天渕が47歳の時に描いたもので、昭和39(1964)年に市の有形文化財に指定されています。 | |
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拝殿前の右手には小林天渕が同人と弘化4(1847)年に、小峰峯真の廃筆を集めて埋めた、筆塚が建っています。 篆額(てんがく)は戸川播磨守安清、銘文は寺門静軒が撰し、川上之由が書いています。 碑の片面に、天渕自身が描いた花咲く老梅と自作の詩文があります。 | |
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社殿の左手の稲荷社の前には、根岸典則の碑が建っています。 天保3(1832)年の建立で、上部篆額「解谷先生之碑」は小林天渕・典則の履歴等を記した撰文は江戸の儒学者菊地五山がそれぞれ書いています。 | |