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Aoume
  • 更新日 2011年12月 8日
  • 千ヶ瀬から河辺を行く
    青梅駅青梅駅前付近の商店街住吉神社宗建寺田端橋旧大山道千ヶ瀬の筏会所跡千ヶ瀬神社(シイ)→ 石神社(大山道の道標)→ 河辺駅
    青梅駅おうめえき

    青梅駅前付近のおうめえきまえふきんの
    商店街しょうてんがい

    現在、青梅街道に沿って東西に広がる商店街は多摩川が作った最も高い河岸段丘の段丘面の上にあります。 かつては生活に欠かせない水が得にくいところでした。 このため、以前の青梅は金剛寺の前から千ヶ瀬にかけて広がっていました。 青梅街道に沿う現在の位置に街が完成したのは寛永年間(1624~1644)頃以降といわれています。

    街並みのうち古い建物の多くは、漆喰で塗り固められた蔵造りです。

    昭和40(1965)年頃から、街並みの様子もかなり変化してきましたが、1月12日のだるま市、5月2・3日の住吉神社青梅大祭などは、あいかわらず多くの人々でにぎわっています。 大祭では、豪華に飾りたてられた12台の山車が市中に繰り出し、山車の上では囃子の競演が行われ、道は人々であふれます。 明治前期に東京神田から購入したという山車もあり、明治後期まで山車の上に飾られていた5町内の山車人形は、市の有形民俗文化財に指定されています。

    住吉神社すみよしじんじゃ

    宗建寺そうけんじ

    田端橋たばたべし

    田端橋は宗建寺の南東側にあります。 住吉神社の裏から宗建寺の山門の前を南へ流れて多摩川に合流する、別当沢(笹川)に架かっている小さな橋です。

    このあたりには昔水田がありましたが、段丘崖(はけ)の下にあったのでハケ田と呼ばれていました。 そこに架かっていた橋なので、以前はハケ田橋と呼んだのが、いつのまにか田端橋になったという説もあります。

    橋を通る東西にのびる道は江戸時代以前の、河辺・羽村と御岳・奥多摩を結ぶ重要な幹線道路でした。

    旧大山道きゅうおおやまどう

    大山とは相州(神奈川県)の大山阿夫利(あふり)神社のことです。 丹沢の大山(標高1252メートル)は武蔵御岳山と並んで、中世以降の修験道の道場であり、江戸時代には青梅周辺でも大山信仰が盛んに行われました。 大山を求めて歩く道を「道者の道」、あるいは「大山道」と呼びました。

    田端橋から段丘崖に沿って東に向かい、千ヶ瀬神社前から河辺の市立総合病院の裏手を東の方へ、さらに小作坂上から羽村駅前に出て、青梅線沿いに台地上を通り、拝島で日光街道と合流し、そこから八王子方面へ向かう道が大山道です。

    千ヶ瀬の筏会所跡ちがせのいかだかいしょあと

    「会所」は「改所」とも書かれ、江戸時代には商品の取引が行われたり、またそのための事務所が置かれたところです。 ですから「筏会所」とは筏の取引が行われたところです。

    多摩川の筏の歴史は古く、奥多摩の各地で切り出された木材は「青梅材」と呼ばれ、大正末期まで筏乗りによって運ばれていました。 多摩川を流れる筏の、難所のひとつに羽村堰があります。 玉川上水の堰を保護するために、筏流しが制限されたこともありました。 堰の上流に位置する千ヶ瀬の筏会所は、上流から運ばれてきた筏や流木が組み直されたところで、同時に取引がされたところです。 上流の大柳(釜ノ淵公園)にも筏会所があったようです。

    千ヶ瀬神社ちがせじんじゃ

    千ヶ瀬神社は豊受姫命(とようけひめのみこと)ほか5柱を祭神としており、かつては稲荷大明神、あるいは稲荷神社と呼ばれていました。

    伝説では承平3(933)年に、ここに社殿を建てたのが始まりとされています。

    ●シイしい

    境内には出雲太郎が植えたという伝説を持つシイノキが2本あります。東側のものは高さ約16メートル、幹回りが5.9メートルと大きく、昭和32(1957)年に市の天然記念物に指定されています。

    石神社いしじんじゃ
    (大山道の道標)おおやまどうのどうひょう

    石神社は市立総合病院の西に位置する小さな神社で、ここは旧西分村の村域でした。 道反之命を祭り、社殿は石製です。 神社の隅には大山道の道標があります。 道標は自然石の大日如来塔で、「右大山八王子道、左箱根(箱根ヶ崎)所沢道」と彫られています。

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