美井廼屋綾綱は本名を井上庄左衛門といい、井上家の五代目として江戸時代の終わりごろ、享和3(1803)年に旧青梅市民会館周辺の青梅上町で生まれ、煙草屋を営んでいたと伝えられ、その子孫は照明香という目薬製造販売業をしていました。
当時、青梅上町の周辺は縞市の立つにぎやかな街でした。同じ町内には縞買商をしていた小林十(重)郎左衛門綾繁が住んでいました。小林家の人々は江戸日本橋の越後屋(現在の三越)で修業し、番頭となり青梅縞の買宿をつとめ、後に越後屋の屋号をもらいました。小林綾繁は狂歌をたしなみ江戸の狂歌の中心人物であった大田蜀山人( 四方赤良)に学び「南陀楼」の号をもらい、文化年代の青梅の狂歌の中心人物でした。
綾綱は近所に住んでいた綾繁に学び、また、大田蜀山人の流れをくむ狂歌の鹿津部真顔(北川真顔)とも交流があり、狂歌師としての地位を確立していったのでした。後に真顔から美井廼屋綾綱の作名を贈られました。
その折に真顔が詠んだ、「美井廼屋綾綱という作名まゐらすとて『され歌の深き底ひも汲とらむ美井の釣瓶の長きあや綱』」という狂歌が今に残り、掛け軸にされ井上家のご子孫の家に伝わっていました。
明治の初めにはこの付近で「ひとや(しとや)火事」と言われる大火事があり、井上家でも母屋や蔵が多大な被害を受けましたが、狂歌を詠んだ短冊をはじめ、祝儀や火事見舞い、葬儀の様子など交際関係の記録や土地関係の記録など約100点の当時の青梅村の様子を伺える貴重な史料が残され、平成29年に市郷土博物館に寄贈されました。
井上庄左衛門は明治3(1870)年10月28日に亡くなりました。
昨年、庄左衛門の命日に九代目ご当主夫人とご家族の手により、菩提寺である青梅滝ノ上町の常保寺に「綾綱を偲(しの)ぶ碑」が建立されました。
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