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  • 更新日 2013年7月24日
  • 青梅市「広報」より
    《第四十一回》ふるさとの文化財

    武蔵御嶽神社むさしみたけじんじゃ釣燈籠つりどうろう
    【青梅市指定有形文化財】
    掲載日 平成16年8月15日

    武蔵御嶽神社は、明治以前には御嶽蔵王権現と称して武蔵国で厚い信仰を集めていました。天正18(1590)年、徳川家康は豊臣秀吉に従い小田原城に北条氏直を攻め滅ぼすや、関八州を与えられ江戸城を居城としました。翌19年には領内の有力社寺に領地寄進状を交付し、御嶽権現には朱印地30石が与えられます。さらに慶長10(1605)年、家康は代官頭の大久保長安ながやすに御嶽権現の修復を命じ、その竣工に際し長安より一対の釣燈籠つりどうろうが奉納されました。これが武蔵御嶽神社宝物殿に収蔵されている市指定文化財の釣燈龍です。

    釣金具を除く高さが約50㎝、六角形の面には藤の透かし彫りが施され、銅製で鍍金ときん仕上げの逸品です。柱部分に鍍金の名残がうかがえますが、奉納された当時はきれいに輝いていたことでしょう。その柱3か所に「大久保石見守敬白」「奉寄進武州三竹ママ蔵王権現」「慶長十一年丙午十一月吉日」と刻まれています。また越後の弥彦神社ほか伊豆の数か所の寺院にも同様の細工をした燈箆が奉納されていますが、いずれも年代は御岳山より後のものです。

    長安は家康に仕え、伊奈忠次とともに行った全国検地や石見銀山、佐渡金山、伊豆銀山奉行として知られ、八王子に所領を与えられ石見守となり、その財力は当時並ぶものがなかったといわれます。こうした有力者を総普請奉行にして修復がなされたことは、御獄権現が江戸幕帝に重要視されていた証しといえます。

    このとき造営された社殿は残念ながら元禄13(1700)年の台風で大破し、再び幕府によって修復がなされました。

    市文化財保護指導員
    須崎 直洋
     参考資料
    『青梅ゆかりの文化財』より
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