永禄年間(1560年代)のことである。うっすらとケヤキが芽ぶきはじめた多摩川の河岸を粛々と西上する軍勢があった。馬上の若き武将は、滝山城主北条氏照。氏照は、滝山城を出て勝沼城主三田弾正綱秀を討たんとしていた。
一方、三田勢は平城の勝沼城から、天嶮の利ある辛垣城に移って防戦しようとしている。 北条勢は、根岸河原から対岸へ渡ろうと、崖をおり、ザンブと流れに馬を乗り入れた。そうはさせじと、対岸から雨のように矢がふりそそぐ。
何百という 雑兵たちは、手に手に槍や刀をふりかざしながら崖をかけおりる。 たちまち河原は、すさまじい修羅場と化していった。だが、数で勝る北条勢、じりじりと三田勢を追いつめていく。軍畑、多摩川左岸は、次第に三田勢の冷たい?が数を増やしていった。
そんな中を、北条勢の道案内をつとめる員野(かずの)半四郎という者、赤い陣羽織などを誇らしげに着て唐沢をのぼっていく。
と、とつぜんドーンと山の上から銃声一発。員野は、陣羽織よりもっと赤い血しぶきをあげてどうと倒れた。 なんと、三田勢には、当時の新兵器の鉄砲があったのである。 北条勢は、一瞬ひるんだ。
また、小城とはいえ険しい山の上にある辛垣城に、どうしても攻め寄れない。 だがこの時、意外なことがおこった。 三田の家臣塚田又八が、北条に寝返ったのである。塚田は「辛垣城の下の急斜面には、青竹を立て並べ油がぬってある」と内通したのだ。 しめたとばかり北条勢、その青竹に火を放った。これには、さしもの辛垣城もあっというまに炎に包まれてしまった。
三田弾正綱秀は、岩槻の太田氏を頼って逃れていったが、しかし、太田氏の離反にあい、無念の涙をのんで、10月に自刀。 ”辛垣の南の山の玉手箱あけてくやしき我が身なりけり”は落城のときの綱秀の和歌である。
ここん、鎌倉時代以降約250年、青梅付近一帯を領していた三田氏は滅亡した。軍畑の鎧塚は、土地の人が合戦で討ち死にした兵士たちの刀や鎧を埋めたところである。
三田氏は、代々山内上杉派であったが、北条市の勢力が拡大するにつれ関東の諸将が次々とその軍門に下る中で、武州岩槻の太田氏と共に最後まで上杉に忠誠をつくした。
関東では、ほとんど孤立状態であったにもかかわらず、最後まで己の主義を貫いて亡びた三田弾正綱秀であった。
三田のお殿様は、上杉派の重臣として、武勇をふるったが、城下では市の振興もはかり物資の交流は盛んだったという。
一方、文芸も愛し、連歌を楽しむ風流人でもあった。 わずかな共を従え、武蔵野のススキの中を馬で散策されながら、即興の歌を作られることもあっただろう。