山道を登るにつれて、深い杉林と雑木林(ゾウキバヤシ)。 山頂にいたって、高水山(タカミズサン)は聖地(セイチ)となる。 うっそうとした大樹のかげに常福院(ジョウフクイン)不動堂がある。
ある年の四月七日の夜のことである。 明日は、獅子舞の祭りが行われるので住職は山頂の庫裡(クリ)に泊まり込んだ。 境内の清掃、護摩(ゴマ)の準備、その他いろいろ、いそがしい一日であった。
夜もふけて、そろそろ休もうとふと後ろの襖(フスマ)を見ると、そこに掛けてある掛け軸の上のほうがじっとりと濡れていた。 ほかの掛け軸に異常はなかった。 観音菩薩の絵のわきの掛け軸だけ濡れているのである。
雨はふっていないし、雨漏(アマモ)りではない。 ネズミの小便にしては、濡れかたがおかしい。 上部十センチほどが平均に濡れているのである。
その掛け軸は、住職自ら、「深山幽谷燃紅(シンザンユウコククレナイニモユル)」と、墨くろぐろとしたためたものであった。 不審におもったが、そのままにしておくのも気掛かりなので、そばにあった火鉢(ヒバチ)で乾(カワ)かし、また掛けておいた。
次の朝、掛け軸を見ると昨夜と同じように濡れているではないか。 ほかの掛け軸は濡れていない。 また乾かした。
そんなことが何度も続いているうちに掛け軸の木の枠(ワク)のノリが湿気ではがれてしまった。 しかたなく、その掛け軸はとりはずしてしまったそうである。