天慶(テンギョウ)二年(九三九)十二月半ばのことであった。
平将門は、俵籐太秀郷(タワラノトウタヒデサト)の軍に追われて、相模(サガミ)方面から日の出町大久野まで逃れてきた。
将門は、四百人の部下を指揮して、勝峯山(カツポサン)に一夜城を築いた。
秀郷軍は、総勢(ソウゼイ)三千人。 二手に分かれて、一部は幸神(サジガミ)の籐太口に陣を張った。
両軍は、にらみあいのまま年が開けた。
正月七日、秀郷は、先発隊として菅口六郎(スガグチロクロウ)を向山から攻めのぼらせた。
将門軍は、それを迎え討つ。 将門は、大男で大刀無双(ムソウ)であった。 一丈もの金棒をふりまわして大奮闘(ダイフントウ)。 戦は、激烈(ゲキレツ)をきわめた。 少数ながら将門軍は、精鋭(セイエイ)ばかり。 勝敗がつかぬまま夕暮れとなり、両軍は小休止となった。
この戦況を籐太口からながめていた秀郷は、何とか打つ手はないものか、と勝峯山をにらみすえた。
暮れやすい冬の日は、もう大岳山へしずみ、もみじ色にそまった頂に、馬にまたがったひとりの武将の姿をうかびあがられている。
秀郷は、ポンとひざを打った。
「おお、あの甲(カブト)には見おぼえがある。 まさしくあれは将門じゃ。」
秀郷は、すばやくそばに生えていた欅(ケヤキ)を折りまげると、太い弦(ツル)を張った。 とてもひとりでは引けない強弓(ゴウキュウ)ができあがった。< br>
兵士数十人が力を合わせてギリギリと引きしぼり、ヒョーと放つ。
矢は、将門めがけてぐんぐんのびる。 だが、矢はわずかに将門の鎧(ヨロイ)の袖(ソデ)をかすめて向こう側の谷へ消えていった。
これには、さすがの将門も肝をつぶし、「衆寡敵(シュウカテキ)せず」と、迫りくる闇をさいわいに、風穴洞(フウケツドウ){鍾乳洞(ショウニュウドウ)}を抜けて山をおり、青梅へと逃(ノガ)れて行った。
金剛寺にたちよった将門は、杖にしていた梅の一枝を地にさした。
「我がこと成るなら、この梅栄えよ。 成らぬなら枯(カ)れよ。」 と祈願した。
その後、梅は芽をふき、実を結んだ。
ところがふしぎなことに、秋になっても黄色く熟さず、青いままであった。
これが、青梅の地名になったといわれている。