天寧寺は、甲斐(カイ)の国の一華文英(イッカブンエイ)という人が開山したといわれている。
文英の母は、日ごろから信仰心があつく、よい子を授(サズ)かるようにと金峯山(キンプサン)を一心に念じていた。
ある夜、夢の中に金峯山の竜神(リュウジン)があらわれた。 竜は、黒雲とともに天にあらわれ、すさまじい勢いで進んできたかと思うと、しだいに小さくなって懐(フトコロ)に入ってしまった。
そして、ひとりの男の子が生まれた。 男の子の脇(ワキ)の下には、三枚の鱗(ウロコ)があり、ただ者ではないかと思われた。
男の子は、幼いときに仏門に入り、たちまちすばらしい才能を発揮した。
後に武蔵国へいき、天寧寺をたて、神岳通竜禅師(シンガクツウリュウゼンジ)の称号をうけた。
禅師は、永承(エイショウ)六年(一五〇九)八五歳でこの世を去るとき一片の鱗をのこして、うしろにある池に姿を消したという。 禅師は、竜神の化身であったといわれている。
天寧寺には、七不思議の話が伝わっている。
山門お前に小さな石橋がある。 ほんの数歩で渡りきってしまえる橋だが、この橋を渡るとき、心にやましいものを持っている人は、かならずうしろをふりかえる、といわれている。
この見送り橋の下を、やはり小さな川が流れている。 青梅地方の川は、たいてい東の太平洋に向かって流れている。
ところが、ふしぎなことに、この川は西に向かって流れているのである。
みごとな仁王(ニオウ)さまと邪鬼(ジャキ)、すばらしい山門の上には、小部屋がつくられている。 当直(トウチョク)の僧が寝起きしたり修行(シュギョウ)したりするところである。
寝るとき、僧たちは南を枕にして眠る。 ところが朝起きてみると、いつのまにか北枕になっているのである。
住職の話によると、北側に本堂があり仏が祭ってあるので、仏に足を向けるな、ということだそうである。
むかし、修行する僧たちは、一週間に一度風呂に入ればいいほうだった。 風呂桶に水を汲み入れるものも、薪でわかすものもたいへんな苦労であった。 それだけに風呂は、楽しみでもあり心安まるときであった。
だが風呂からあがって、てぬぐいを干しておいても、ふしぎなことにいつまでも乾かず、ぬれたままだったそうである。
庫裡の前に、外便所がある。 その一つは、開かずの便所といわれ、いまでも便所のあったところに小さな仏像が祀(マツ)られ、花や水が供えられている。
むかし、ひとりの若い僧が、修行のために問答(モンドウ)をさせられていた。 僧は、その問答の答えが、どうしても思いつかなかった。 いくら考えてもわからない。 答えがわからなければ、寺を追いだされてしまうかもしれない。
困りきった僧は、便所に入って考えた。 それでもわからず、ついに便所の中で首をくくってしまった。
そこで、便所の扉をくぎつけにして開かないようにしてしまった、ということである。
本堂の前の左側に、大石をくりぬいてつくった井戸がある。 今は、重い鉄板でふたがしてあり、のぞきこめない。
むかし、どろぼうが寺へ入ろうとした。 どろぼうは、盗みをする前に、のどをうるおそうと、井戸をのぞきこんだ。 そのとたん、
「ぎゃあ!」
と叫(サケ)んでしりもちをついてしまった。
なんと、井戸の中から、血みどろの顔が、どろぼうを見上げていたのである。
じつは、その血みどろの顔は、恐(オソ)ろしい血みどろの顔に見えるといわれている。 まっすぐな心を持った人がのぞいても、ふつうの自分の顔がうつるだけだということである。
本堂のうらに池がある。 以前は、現在の三倍もある大池だったそうであるが、ときおり、この池から、夜中に鐘の音が聞こえてくる。
夜なき鐘、といわれている。
むかし、このあたりも戦にまきこまれた。
山門わきのつり鐘堂には、みごとなつり鐘がさがっていた。 戦をしていた大将(タイショウ)は、このつり鐘を鉄砲の玉にするから、出せ、といってきた。 村人は、戦になって人が死ぬのも寺や家いえが焼かれるのもいやだった。
ある夜、村人たちは、つり鐘をおろすと、密かにうらの池にしずめてしまった。
「どうか、戦のない世の中になりますように。」
という願いをこめて。
それからというも